強弱勝敗

内田樹さんは、日本でもっともネットを有効に活用されている学者さんの一人だと思う。その
ブログは、毎日更新されているとは思えないほどの密度を誇っているが、昨日の記載にはハタと膝を打った。「強弱勝敗を競うことの最大の罪は、それが『自分以外の人間が低能力域にとどまること』から利益を得る人間を生み出すことにある」と。あぁ〜、こういうことがすらっと書けるのは、誠に勉学の賜物だと思う。羨ましいなぁ、神戸女学院大学の生徒さんたち。
Posted by k_sugioka at 20:19│
Comments(8)│
TrackBack(0)
この記事へのトラックバックURL
http://trackback.blogsys.jp/livedoor/k_sugioka/50130778
そういえば、ドラゴン桜(こないだやってたドラマ)で‘バカとブスは
東大にいけ’って言ってました。社会は、頭のいいやつがつくってるんだ
なんてセリフがありましたよ・・・。
まぁ、「何をもって頭がいいとするか」は人それぞれですからね。
でも、上記のセリフよりも内田さんの含蓄に惹かれるわけです、わたしは。
内田樹さんブログ10月分を読みました。イヤー面白いですね。ぐんぐん読めてしまう。
「ゆとり教育」は、問題視されて久しいけれど、表の顔として語られる「美しい概念」とは裏腹に、日本人アホ化計画の意図を感じますね。これでは個性的な人間など出来るはずがない。問題は「教師と授業の質の向上」にあると思う。
この「ゆとり教育」を作った人達は、自分たちの子供はアホにならないと思っているので、つまり教育に金がかけられるので、自分とは無関係だと思っているんじゃないだろうか?このままでは学力格差は広がるばかり。利用する層と利用される側の乖離が出来、その構造からは逃れられなくなるのではないかと心配です。
だいじなのは、人より学力が良いことでなく、個性的なことではなく、
そして社会において勝者になることでもなく、
幸せを感じる能力に長けているかどうかだと思う今日この頃です。
他人に勝たなくても、沢山のお金がなくても、
幸せだと思え、心が満たされるような
価値観を持てる…としたらスバラシくないですか?
惚けた状態としての「幸せ」ではなく、かと言って、他者を蹴落とすことで
感じられる「達成感」でもなく、ただ「あること」の(それを感じることの
できる)稀少さに(言葉の全き意味としての)有り難さがあるのではないか?
と。
そういう、こもごもの背景を踏まえての、内田さんの言葉に心震える次第。
わたしは、「詩」を解さない不粋な人間ですが、それ故に、少なき言葉に
込められた思いへのシンクロは「有り難き」。
>リキさん
ゆとり教育は教師や授業の質の向上だけではなく、家庭での問題もあると思います。教師の向上については、近々教員免許も更新性になりますが、だからといって必ずしも質が向上するとは思えません。確か現行の教師については教員免許更新性はとられないとききましたし免許更新性になったからといって良い先生が輩出されるとは限らないからです。最近体罰がとりざたされていますが、体罰ではないものも子供や親が騒ぎたてたりして教師が処分されるという事が往々にしてあります。勿論体罰はいけませんが生徒のためを思って忠言しても処分をうけてしまうような社会であれば、良い先生も育たないとも思うのです。なので、家庭が学校まかせというのも大いに問題があるし社会の風潮にもあるような気がします。でもやっぱり楽しい授業だと学校へ行くのが楽しみですし意欲もわきますから教師と授業の質の向上って本当に大切ですね。
強弱勝敗って子供達には多少必要だと思うのですが、でも、大人になってから思う事は、やっぱりケンイチさんがいうみたいな幸せを感じる能力に長けているかどうかだと思います。
生きてく上での知恵や勉学は大切ですが、どういう生き方をしていくか、なにを幸せに思って生きていくか、感じるかって大切ですね。
友達にクリスチャンがいますが何かの話をしてた時に神様に生かされている事の喜びについて話してくれたことがあります。まさに、「あること」のありがたさだと思いました。
時折ものすごく真剣に思うのですが、英知あふれる先人達が「善かれ」と思って
行ったことの努力や苦行の延長線上にわれわれはあるわけで、そういう意味では
軽々しく「不幸」を感じるべきではないのかな、と。
社会全体が善い方に向かっているのか、悪い方に向かっているのかは心もとない
ところではありますが、せめて自分が諍いの原因になることだけでも避けたいと
思う次第です。